|
明治元年、初代M 丑蔵が川魚屋を岡谷市湊で始める。明治元年というのは口伝えで伝えられてきましたので確たる証拠的な物はありませんが、墓誌を見て推測すると大体間違いではなさそうです。
墓誌には丑蔵の前の代に菊次の名前がありますが、この人が魚屋をやっていたかどうかは不明です。
その後今の釜口橋(釜口水門の隣の橋)の湊側の辺りへ移り、釜口橋を架けることになり、代替地として現在の天竜町へ移る。 |
|
昭和38年当時のお店の様子。現在は駐車場になっている場所です。
当時は番頭さんや仲買人が自転車の荷台に魚をいっぱい積んで、そこらじゅうへ売り歩いたそうです。
|
|
右端が二代目のM丑蔵です。(初代の名がM丑蔵といい、そこから店名をM丑川魚店とした。二代目の本名はM菊重ですが、丑蔵を襲名しました。)
左端が三代目のM元平です。旧満州では警察署長を務め、帰国後店を継ぎました。
前列右から二番目のけさよおばあさんは、うなぎを裂くのが岡谷一上手だったと聞きます。先代から聞いた話によると、東京の有名なホテルの職人二人と裂き比べをした所、二人掛りでもかなわなかったそうです。 |
|
写真の裏書
建て替えを前に撮った記念写真だということが分かります。 |
|
昭和38年6月に店舗兼住居を新築。
2年後の昭和40年6月に先代となる四代目M 巌・知恵夫婦が養子として迎え入れられました。 |
|
昭和56年には川魚店の店舗奥に先代M 巌が新たにうなぎ割烹をオープンしました。蔵造り風の重厚な建物です。
下の店内写真のカウンター席の上に『含経味道』と書かれた額があります。これは開店翌年の昭和57年に店の発展祈念として有名政治家である故金丸 信先生から先代宛に為書きで贈っていただいたものです。
|
店内の様子
(現在は使われておりません) |
|
額の右脇に一緒にいただいた電報があります。
『国会に出る前から諏訪地方に入るとM丑のうなぎと決めている私です。本日の新築落成を心から喜ぶと共に、店のより一層の発展を祈念します。』
衆議院議員 金丸 信
|
|
平成17年には長男のM 守が四代目の後を継ぎ五代目社長となりました。
翌年平成18年8月に川魚店と割烹を併設した現在の店舗が完成しました。 |